砂嵐の旅人
- theroadtogenius
- 2月23日
- 読了時間: 3分

砂漠の旅路にて
夜明け前、冷たい砂が足元を包む。
果てしない砂漠が広がり、空には星が瞬いている。
どこに向かえばいいのか、旅人の胸には明確な答えはない。
ただ、見えるものと聞こえるものに流され、ひたすら歩くことしかできなかった。
それでも、砂漠を進む者たちは、どこかで信じている。
「前方の地平線の向こうに、救いのオアシスがあるはずだ」と。
彼らは誰もが懸命に歩み続ける。
しかし、見えるオアシスのすべてが本物ではない。
遠くにきらめく水面のようなもの、それはたいてい蜃気楼だ。
進めば進むほど、砂漠の中で迷子になる人々を何度も見た。
かつて、この旅路に羅針盤を持たないまま出た者がいた。
足取りは重く、目は彷徨い続けた。
目の前に現れるすべてのものを信じた結果、ただ漂流するばかりだった。
彼が砂漠の中心で立ち尽くしていたとき、一人の老人が通りかかった。
「お前の目は、オアシスに執着しすぎている」
と彼は言った。
「旅人には羅針盤が必要だ。ただ歩き続けるだけでは、この砂漠を抜けられない」
老人の言葉に、彼は初めて気づいた。
自分が進むべき道を描く地図は、自らの内にしかないということを。
情報の砂嵐
私たちが生きる現代という砂漠は、情報という名の砂嵐に満ちている。
膨大なニュース、SNS、広告、それぞれがまるで砂粒のように私たちに降りかかる。
その中で、真実と虚構が入り混じり、私たちの視界を遮る。
気づけば、何を信じ、どの方向に進めばいいのか分からなくなる。
ときには、この砂嵐に翻弄されてしまう人がいる。
蜃気楼のような「誰かの意見」や「流行」を追いかけ、最初に目指していたものを見失ってしまう。
自分を見失う瞬間は、静かに訪れる。
その喪失感は深い砂に足を取られるようなものだ。
軸を持つということ
旅人が砂漠を歩むとき、必要なのは明確な目的地と、それを指し示す羅針盤だ。
羅針盤がなければ、進む先が正しいかどうかを判断できない。
目に入るすべてを信じることは、必ずしも正解ではないのだ。
では、羅針盤はどこにあるのか。
――答えは、自らの内にある。
自分が何を求め、どのような未来を目指したいのか。
その問いを持つことで、羅針盤は動き出す。
しかし、それは簡単なことではない。
旅を続ける中で、蜃気楼に惑わされることもある。
他人の地図を借りて、進むべき方向を見失うこともある。
それでも、立ち止まり、風が止むのを待ち、再び自らの羅針盤を見つめ直す
――そんな瞬間が必要なのだ。
砂漠を抜けた先に
夜が明け、旅人は砂の上に自らの足跡を確認した。
「どれだけ迷っても、私は歩き続けてきた」。
そう自らに言い聞かせ、足元の一歩一歩を確かめながら進む。
砂嵐の中、目を閉じると静寂が広がる。
その静けさの中で、旅人は耳を澄ます。
風の音の向こうに、自分自身の声がかすかに聞こえるのだ。
それは、旅の途中で忘れかけていた、確かな羅針盤の音だった。
どこに向かうべきか――その答えは外にはない。
自分の中に目指すべき地図を描き、その地図に従うとき、人は初めて砂漠を抜けることができるのだ。
そしてその先に待っているオアシス。
それは、他の誰かが見つけたものではない。
自分の足で歩き続け、掴み取ったものだけが、本物の救いなのだ。
終わりに
この広大な砂漠を歩む私たちは、それぞれが旅人である。
他者に地図を任せるのではなく、自らの羅針盤を調整し、自分だけのオアシスを探し続ける必要がある。
羅針盤が示す先には、きっと光がある。
迷ったら風が止むのを待ち、静寂の中で、もう一度自らの声を聞くといい。
たとえ砂嵐に巻き込まれても、歩き続ける限り道は見えてくる。
その道の先に、本当の自分だけの未来が待っているのだから。
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